歴史

開基 釋真證 行年92歳

嘉禎2年(1236年)3月12日御還淨

当山開基の釋真證は、宇治川の先陣争いで梶原景季と争った近江源氏佐々木四郎高綱の弟六郎秀綱とされる。佐々木高綱自身も浄土真宗と深い関係があり、御開祖親鸞聖人から釋了智という法名を給わったとされる。またその兄の三郎盛綱も法善房釋光実という法名を給わり、源氏の二人の部将が親鸞聖人の下に法悦の日々を送ったと伝えられている。高綱の三男高重も出家して、親鸞聖人の弟子となり、釋西信の法名を給わり、康元元年(1256年)江州蒲生郡に一寺を建築し、遠郷山安養寺の開基となっている。この安養寺は、天保8年(1837年)には御坊分に昇格し、明治19年佐々木家廃絶まで、20代の住職が法統を守り、様々な変遷の末、八幡城三の丸跡地(現在地)に移転、現在に至っている。

京都寶蓮寺の十八代目までは、萬里の小路(までのこうじ)(現在の柳馬場三条下ル)に所在した境内地に住んでいた。この萬里の小路の境内には、前田という医者が住んでいて(現在の前田町の町名の起源となる)、保童円(ほどうえん)という丸薬を売り有名であったとも記録に残されている。しかし、天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が自害した年に、京都寶蓮寺の十代目の住職、釋覚照は、一時、京都の戦火を逃れ、現在の三重県平賀、古敷間の揖斐川の河原の所に平等山願淋寺を建立しその開基となる。釋覚照は、その後京都の寶蓮寺にもどり、願淋寺は、息子の釋長順が受け継いだ。この願淋寺は明治33年の揖斐川改修により現在地、桑名郡多度町大字東平賀1885に移転したが、現在、第二十世釋恵潤に至っている。

寶蓮寺の萬里の小路の境内地は、鳥羽伏見の戦で全焼したが、当時櫛笥町に別邸の隠居所があったので、そこに移り住み、明治の代に本堂を建立した。かつて洛中の寺院には墓地所有の許可が下りなかったが、中堂寺村は洛外に位置し京都寶蓮寺は現在、例外的に墓地に恵まれている。梥本一洋画伯の数々の作品を所蔵するほか、寶蓮寺御門徒の田中佐一郎画伯が残した当山庫裏襖絵、また油絵の「親鸞聖人御影」がある。平成13年に御還淨した前住職、佐々木日出夫、康樂院釋惠照は、生涯を通して仏教音楽の普及、伝道に尽力し、大谷楽苑の指揮者として活躍、第43回京都国体(昭和63年)では開会式の音楽の総指揮をつとめている。

 

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